考えごと

今の仕事のもっとも面白い点の一つに、「いろんな人に出会える」というのがあげられる。

その中でも面白い人というのはいるのだ。そういう人は少し話しただけで、「ややっ」と気になる。うまく言えないけど、すごく開けている感じがする。そして、めっちゃ普通なのだ。

「あ、たぶんこの人はどこにいてもこんな感じの人なんだろうなぁ」、という自然さが身についている。外国だからと言って、妙に張り切っているわけでもなく、警戒しているわけでもなく、かといって調子に乗っているわけでもなく、やっぱり普通なんである。

その人たちはみんな生き生きとしている。話してみると、いろいろな場所に旅をしたり、住んだりしたことがある人が多い気がする。でも、別にそれは特別なことではなく、行ってみたかったから行ったんやけどな、くらいの語り口であたかもコンビニにでも行ったかのように話される。興味があったから自分の目で見に行ってみた、それだけだ。

だからなのか、違いを違いとして受け入れることが上手な気がする。決してその違いを無視したり見ないふりをするのではなく、きちんと見ている。そういう態度というか、あり方はやさしいな、と思う。

自分の生まれた国、自分の育った国、地域というのは居心地がいいものだ。勝手知ったるところだからだ。家族もいるし、友だちもいる。仕組みも分かるし、言葉も分かるし、生活するうえで「やべえ!!困った!!!(冷や汗タッラ~~~)ゼェゼェ。ハァハァ」ということはそうそうない。(もちろん、不平不満はあるでしょう。)でも、そういうところでぬくぬくと(まぁ、文句くらいは言いながら)過ごしていると、違いを違いとして受け入れるということに鈍くなってしまうような気がする。これは、特に日本に対して私が思っていることの一つだ。(快適な日本を飛び出して、その外をわざわざ旅しようという若者が減っていると聞いたことがある。だからますます同じであることに安心を覚え、違いが受け入れがたいものになっていくのではないのか。)

もっと、旅をするべきだ。快適でうふふな旅行ではなく。そして、困ればいい。憤ればいい、疑問に思えばいい。私はそう思う。

そして、その「なんでやーーー?!」「あほかー!!ぼけーー!!」の理由を考えてみればいいと思う。それを考えて理解しようと思ったら、もしかすると言語の大切さに気がつくかもしれない。

言語は、コミュニケーションを簡単にしてくれるただのツールに過ぎない。しかし、ツールだからこそうまく使えばより深く関わりが持てるようになる。そして、自分の考えを伝えることができる。考えや意見を交換すると、「はっっ!!」と思うことや「なるほど、そうも考えられるなぁ」とこちらが思うこともあるだろうし、相手が思うこともあるだろう。ジェスチャーだけではやっぱりそこまでは伝えられられない。そういう経験を重ねていけばいくほど、言語の大切さや便利さに気づいていくだろうから、「こりゃ、勉強せなあかんなぁ」と本当の意味で学習できるというものだ。大事なのは、英語力ではなく、「伝えたいこと」が自分にあるかどうか。その「伝えたいこと」を伝えるための道具が英語なりその他の言語に過ぎないということだ。

そして、旅をすると困ったことがある以上に、「あ、やさしいな、みんな」、とか、「あ、意外と人間なんてどこも変わらへんのちゃうのん?!」、ということに出会う。そして、「日本すげえな!!」と言われることの多さに気がつく。内にばかりいたらその「すげえな!!」は感じにくいけど、一歩外から見てみると、結構素直にそのすごさを認められたり、好きになれたりするものだ。だから、旅をしながら「私は日本代表だ」という気持ちで日本のことを人々に知ってもらわねば、という使命感に燃える。

困っているのに楽しくて、おもしろいのに腹が立つ。ありえないことが起こって、(日本では)当たり前のことがさっぱり通用しない。くっそーーーー!!!と絶叫しながら、おもろいやんかーーー、と大爆笑できるタフさが日本人に欠けている気がする。いろいろな常識(と信じられている社会に縛られた考え)からちょっと離れて、ついでに日本以外のところを旅してみると日本人ももっと自由で、世界のどこにいても自然にふるまえるようになるのかもしれないな、と思う。

自由というのはそれだけ責任の伴うことだけど、こんなに愉快なことはないな、と最近出会った自由に人生を歩む人たちを見て感じる次第である。そう、いろいろうじゃうじゃ言ったけど、彼らは素敵なのだ。それが言いたかった。


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