オアハカという街。

オアハカに来て丸1年がたち、すべてが新鮮に映っていた昨年から比べると驚きに出会う回数は減った、のだろうか……??

日常の、いわゆるルーティーンの中での驚きは確かに減ったかもしれない。すなわち、慣れてきた、ということである。しかし、この街のことを分かっているというには全く至っていない。理解できないことも、知らないこともたくさんある。


例えば先日4月10日のこと。仕事を終えて歩いていると道がこんなことになっていた。観光都市オアハカでは珍しい、というか、異例の光景で思わず目を疑った。後で聞くと、その日はデモ行進があったそうだ。

オアハカに来て驚いたのだが、この「デモ」というやつが異常に多い。そもそもデモとは「公の場で集団で自らの意思や主張を示す行為」のことだけど、それが異常に多いのだ。周りの人々に危害を加えるとかそういうものではないので、危ないとかそういうのではないが、あまりにしょっちゅうあるので「なんでやろう??」と言う気持ちはぬぐえない。

オアハカのぱっと思い浮かぶイメージだけあげれば、かわいい、雑貨がいっぱい、食事がおいしい、独特の文化がある、などプラスのイメージが先行する。もっとも、日本ではそんなに有名な街ではないので、オアハカという街を知っている=雑貨好き、等のなんらかの興味がオアハカにあるから、もちろんそのイメージもある程度はいいはずだ。

暮らしてみると、上記で挙げたことはどれも本当である。さらに、自然がとても豊かであること、人々がとても優しいということも付け加えたいところだ。メヒコの南部では大きな町のひとつかもしれないが、メヒコシティやその他の大きな町に比べればその規模はとても小さく、そして産業と言えば観光業とか手工業くらいしか思いつかない。工業が発達していないからなのか、オアハカはとても貧しい地域でもあるのだ。そしてなんとなく、ほったらかしにされている感じも否めない。(中央に。)工業がないので仕事がなく、アメリカなどに出稼ぎに行っている人もたくさんいると思う。知り合いや友だちになった人に聞いてみると、必ず家族や親せきの中に「アメリカに住んでいる」という人がいる。あるいは、自分もかつてアメリカで働いていたけど戻ってきた、という人にもよく出会う。

オアハカはメヒコの中でもインディヘナ(先住民族)の数が群を抜いて多い。そして今でも独自の文化や言葉が存在している。各村や集団で独自の文化や言葉があり、スペイン語が第2言語だという人たちも少なくない。前にタクシーの運転手さんと話しているときに教えてもらったときに感じたのだが、自治制度がかなり独特な気がする。小さいのがあって、それをまとめるのがあって、さらにその上があって、地域があって、州があって、という風にかなり種類が多そうだ。しかも、そのそれぞれに独自のルールがあって、統一するというのは難しいのだそうだ。だから結局ばらばらのままで、それぞれが自分たちのルールで地域の運営を行っているのだろう。そういう点では、なんか独特という印象を抱かざるを得ない。私は街の中に住んでいるし、外国人なんでその地域に直接深くかかわっていないので詳しくは全然わからないのだけれど。

先日のごみまみれになっていた大規模なデモが行われたのは4月10日。エミリアーノサパタの命日なんだそうだ。サパタはモレーロス州でインディヘナの権利運動に没頭したメヒコ革命の指導者の一人である。強奪された土地や森林などの財産を村人らが保有できるように戦った彼は、政府軍と対立していたわけだが、最後は政府軍の計略により39歳の時に暗殺されてしまう。しかし、農民のために戦った彼はいまだに民衆からの支持が高いというわけだ。その彼の命日に行われたデモ。参加していたのは、貧しい農民たちだったようだ。

ゴミが散在した街の結果だけを見ると「散らかしたらあかんやんか」とだけ感じるかもしれない。でも、そのバックグラウンドを少し覗くとあまりにも複雑で、なんて言っていいかわからなくなる。

先日、職場で「バレ」という電子マネーのようなものを支給された。カードの中にお金が入っていてお店で使えるというものだ。そこに入っているお金は現金化して引き出すことができないので買い物をするしかないのである。しかし、買い物できるお店というのは大きなスーパーや量販店飲みなんだそうだ。市場や小さな商店では利用できないそうだ。この間、知り合いの外国人と話していた時に中南米のスーパーや量販店のほとんどは米国ウォルマートの傘下あるいは関連なのだそうだ。バレというカードは、人々の生活の基盤(つまり「食料」)を保証するためにあるものだと職場の人が教えてくれたけど、量販店でしか使えないのだから、結局大きな店にばかりお金が流れていく仕組みなんじゃないのか、と私は疑問に思う。でも現金化できないのであれば、それらの店で買い物をするしかない。たぶんだけど、このカードの中に入っているお金は有効期限があって、1年ごとにリセットするとかなんとかなはずだ。消費の促進かもしれないけれど、商店や市場で野菜などを売っている人には関係のないのでは、と考えると、やっぱり、なんか変な感じがする。

市民の台所で使えないなんて。そこでお金が回らないのなら、果たして人々の懐は潤うのだろうか。一部の人だけがものすごく得をするなんてことになっていないだろうか。不思議だ。私はこの仕組みを詳しく知らないので、もしかしたらちゃんとうまいことみんなが得するようになっているのかもしれない。でも、そうじゃない場合のほうが真っ先思い浮かんだ。うーん、よくわからんなぁ。

洗剤やシリアルなどの生活用品はまぁ、量販店で買った方が安いので、どの道量販店で購入していたので、そのときにこのカードを使うことにしよう。でも、日常で食べるパンはやはりパン屋さんに買いに行こうと思う。パン屋のおばちゃんとは顔なじみになったから、毎週訪れては「元気ですか?」「暑いですね」「寒くなってきましたね」など一言二言を交わしているのだけれど、そういうのが心地のいい街だと思う。そして、量販店のパンはおいしくない。出来立ては同じかもしれないけど、日が経つと急激にケミカルな味がする。そういう大量生産の中に消費者として組み込まれて生活することに、この街ではとても違和感を抱く。

オアハカは貧しいのだろうか。

経済的にはそうかもしれない。しかし、素晴らしい独自の文化や、雄大な自然を有し、のんびりと人々にやさしく暮らす人々を見ていると、「豊かさとはなんだろう」という疑問を抱かざるを得ない。

経済的な豊かさと、自然・文化の豊かさ。

どちらを潤せば人はより幸せに、豊かにいきられるのだろう。後者の豊かさだけではこの資本社会の中では苦しい生活を強いられなければならないのだろうか。じゃあ前者の豊かさのみを追いかけることにしたら豊かな生活が保障されるのだろうか。

そういう点で日本ではあまり考えたことのなかった「豊かさ」のことを考えることが多い。疑問ばかりが浮かぶのは、私の勉強不足なのだけどオアハカの人たちは私によくこの質問を投げかける。

「お前は、オアハカが好きか?」

そして私が「好きだ」と答えると、みんな「そうか~」とすごくうれしそう、誇らしげな顔をする。彼らもまたオアハカのことが好きなのだ。私もたまに友だちにストレートにたずねる。

「なんでオアハカのことが好きなん??」

今まで返ってきたことの中で一番印象に残っているのは、

「Tenemos todos(オアハカには全部あるからな。)」

というものだ。

デモが多くて、社会的な問題をたくさん抱えていて、でもどうすればそれを打開することができるのかいまいち見えていなさそうなオアハカ。そして、十分な政府の支援もうけられていないようにも見えるオアハカ。でも、そこに暮らす人々はオアハカのことが大好きで、誇りに思っている人が何と多いことなのだろう。

そんなことをぐるぐる考えた後でこの写真を見ると、何とも言えない気持ちになってくる。


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