3年

久しぶりの投稿。

先日、メキシコに住み始めてから3年を迎えた。あっという間に経ったような気がするけれど、寝返りを打つのがようやっとだった姪っ子が走り回り、日本語を操ってコミュニケーションを取れるようになっているのを見たりすると、3年といえど侮れない期間だと思い知らされる。

最近はこちらの暮らしの様子を記すブログよりも、Tシャツプロジェクトや制作のことを記録する用のブログの方への投稿が多くなってきている。暮らしの中での発見や、驚きが減ってきているのかもしれない。

それがいいことなのか、悪いことなのかはよくわからない。暮らしに慣れてきて、オアハカが自分の暮らしのベースとして機能し始めていると考えればもちろんそれはいいことだし、何を見ても感動しないというのであればマンネリ化してきたと取ることもできる。

もちろん、目が慣れたのは事実だ。以前はひっくり返るほどびっくりしたり驚いたりいちいちツッコんでいたことが、普通に見えてきていることもある。

例えば、この間画材屋さんのレジに並んでいた時のこと。客は私ひとり。それなのにレジにいるおばちゃんは熱心に携帯の画面を眺めていた。「早くしてほしいなぁ」と思ったけど、やたら真剣な顔つきなのでおばちゃんの携帯の画面を覗いて見ると、びっしりとハートの絵文字まみれのメッセージを今まさに送ろうとしているところだった。ハートが20個くらい連打された後に、ペロリと舌を出した絵文字を入れるかどうかで悩んでいたようだ。それを見て、あははと脱力して「それ、旦那さんへ送るの?」と聞くと、「そうなの」と言ってうふふと笑っていた。

日本では、多分、ありえないと思う。(しかしこういうのが日常茶飯事なので、日本もこれくらいしてたっけな?とかたまに思う。2分くらいじっくり考えると、いやー、ないないない、と慌ててこれがデフォルトではないことを認識する。)

そう、時は流れているのだ。

できないことも、知らないことも、まだまだ無限にある。そして今はそれらを全て知ることができないことも理解している。でも、全てに対していちいちひっくり返るようなリアクションは取らなくなっている。では、何が変わったのだろうか。

私が思うに、一般的な驚きの濃度が薄まってきたのだと思う。濃度が薄まったのは、外からの目線できゃっきゃっと見ていた視点から、中に入りながら内外の目線を使って見るという視点にシフトされて行ったのかもしれない。その反面で、興味の方向が狭まってきているのを実感している。興味のある分野へ頭を突っ込みたいと思っている。

より深くみたい。

という純粋な好奇心がある。

駅のベンチに腰を下ろして全体的な人の流れを見ていたら、その中にものすごく変な人がいて目が離せなくなった。その人は毎日いて、いつも気になる。勝手にその人のバックグラウンドを想像したりストーリーを作り上げて自分の中でそれを楽しんでいた。でもある日、ついて行ってみたくなった。そんな感じだと思う。そんなのは放っておけばなんてことはない、だけど、放っておけない。それは、それ以上でもそれ以下でもないいたって単純な好奇心。

もともと飽きっぽい性格や執着心にかけるので、今の生活にしがみつく気力が薄れてきている気がする。それを手放すのは怖いしもちろん一番には経済的な不安がある。いい時期を自分で見計らって線引きをできたら良いのだけど、それができない不器用さ(そう、それは私の武器であり、私を困らせる悲しい素質でもある)がいつも壁に打ち当たらせる。

この間、日本人の男の子2人と半日ブラブラと遊んだ。留学中の男の子と、その子が呼び寄せた友達の男の子である。2人とも22歳で、めちゃくちゃあほだった(最大の褒め言葉としての)。2人でビーチではしゃぎまくり、マンゴーを食べまくった話をしてくれて、ビーチで出会った様々な(奇人変)人のことを教えてくれて、その後に控えた旅のビジョンを語ってくれた。いい友達がいて、わくわくしていて、あほだった。年下の子を応援したくなるのって、こういうことなのかなと思った。自分もまだまだ途上中でアドバイスをできるような立場ではないけど、「めっちゃアツイな!!」と言いながらキキキとにやけている少年のような青年たちの話聞いていると、自分も面白いことをしないとだめだなと気持ちを新たにさせられた。アンリミットな2人を見て、私も壁にぶち当たっている場合じゃないなと思う。2人は今ごろアメリカで他の友達3人と合流して、オアハカでジャケ買いしたCDを爆音で聴いているのだろう。

備忘録として。

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